私の人生と音楽

第7回 サイモン・ラトルとの出会い

2011年11月22日 ベルリンフィル来日公演時 サントリーホール楽屋にて サイモン・ラトルさんと
2011年11月22日 ベルリンフィル来日公演時 サントリーホール楽屋にて サイモン・ラトルさんと

芸大を卒業したばかりの1972年4月のある日、芸大でお世話になった有賀誠門先生から突然電話が有り、「東京ユース・シンフォニー・オーケストラ」(略称TYSO)がスイスに演奏旅行に行くのだが打楽器の団員がいなくて困っているそうだ、佐藤君行ってみないか?」と言う事でした。TYSOは東京の音大や一般の大学の学生が集まり通常はNHKのスタジオで練習をしていて、指揮者は山田一雄先生等当時の芸大の指揮科の先生が指揮をされており、時々NHKでその演奏が放送されたりしていた大学生までの青少年で編成されたオケでした。私も学生時代にはエキストラで出演した事も有り良く知っていたオケでしたし、初の海外旅行という事も有り直ぐに「参加させて下さい!」と返事をしました。詳しい話を聞くとスイスのローザンヌで「第4回国際ユース・オーケストラ・フェスティバル」(略称IFYO)が有りTYSOはそのフェスティバルに参加しその後スイス国内で数カ所演奏会を開くという事でした。費用は当時全部で15万円という事でローンを組んで行く事にしました。

 7月の末、スイス航空のバンコック・ボンベイ経由の南回りでジュネーブに到着、音楽祭が開催されるローザンヌに入りました。到着して宿舎に案内されるとそこは郊外の小学校で、教室にベッドを持ち込んでの合宿という感じでした。同じ小学校にイギリスのリバプールから参加していた、「リバプール・ユース・オーケストラ」も滞在していました。

 音楽祭には全世界から15団体位のユース・オケが参加していて、2週間に渡りそのオケが毎晩順番に「パレ・ド・ボリュー」(バラの館)という市のホールで演奏会を開催します。また、各オケが近郊の町に公演に出かけたりしました。また、ディナーはホールに併設された大きな会場で参加者全員が一同に会して食事をします。その時に会場のステージで毎晩色々なグループが余興の演奏をしたりしました。ある日、リバプールのオケのメンバーの一人が「同宿の二つのオケの管打楽器セクションで吹奏楽をやらないか」と誘って来ました。「練習をしてディナーの時に演奏しよう!楽譜は自分が持って来ているし、指揮は僕がやるから大丈夫」という訳です。彼はリバプールの打楽器奏者で副指揮者をしているというのです。それではという事で実行に移す事になりました。

実はその青年こそ当時17歳のサイモン・ラトルでした。サイモンは「僕は指揮者になりたいんだ!その為には打楽器は重要なので今勉強をしているんだ!」という事で、確かに彼の指揮はチャンとしていて、また音楽を真から楽しんでいる様な指揮ぶりでした。この時は一緒に吹奏楽を楽しんだ仲間という感じでした。

 TYSOの演奏会は大成功でした。また、他の国から来たオケも相当にレベルが高く、凄い音楽祭に参加出来たのだという印象でした。私はその時のTimpani のオーディションを受け参加全団体からの選抜オケに出演出来る事になりました。150人規模の大型のオケで音楽祭の最期を締めくくりました。また、参加団体が全て参加してのレマン湖畔の公園でチャイコフスキーの大序曲「1812年」を演奏した時はスイス軍が実際にキャノン砲を撃ってくれました。この様な経験は一生出来ないだろうと思いました。音楽祭終了後チューリヒでの公演が有り帰国しました。私にとって初めての海外の演奏旅行は貴重な経験でした。

 2年後、私はラトルがジョン・プレイヤー国際指揮コンクールで18歳の最年少で優勝したというニュースに接する事になります。その直後ですがTYSOが再度IFYOに参加する事になり、オケの理事会からインスペクターとして団員のまとめ役をして欲しいという事で私も一緒に参加する事になりました。今回の開催地はスコットランドのアバディーンという港街でTYSOはホスト・オーケストラとして参加し音楽祭の開会式で新曲の祝典曲を演奏する事になり、その式典の演奏でラトルが指揮をする事が分かり、指揮者となったラトルと再会する事になりました。

 1974年夏、「第6回IFYO」のスコットランド・アバディーンでの開会式のリハーサルが始まり、サイモンと再会しました。彼は2年前の事をキチンと覚えていて、真っ先に私に握手を求めて来ました。サイモンの指揮で私がTimpaniを叩くという構図でリハが始まると彼の指揮は見違えるほど素晴らしく成長していました。曲の捉え方も素晴らしく5分程度の短い曲でしたが見事に創り上げました。勿論開会式での演奏も絶賛を浴びました。本番が終わって直感したのは「こいつは凄い指揮者になるぞ!将来ウィーン・フィルやベルリン・フィルでバリバリ活躍する様な指揮者になる!!」と確信しました。

 音楽祭でのTYSOの演奏会は素晴らしい演奏会になり、スタンディングオーベーションが20分も続いたので本来禁止されていたアンコールに「マイ・フェアー・レディー」セレクションを演奏すると会場のお客さんが一緒に歌い出し大変な騒ぎになりました。この日の演奏会は私の生涯の中でも数少ない「背筋がゾクゾクする」様な演奏でした。メイン曲「チャイコフスキー交響曲第5番」の私のTimpaniを聴いたサイモンも私に「僕が何処かのオケのシェフに成ったら『ススミ』(彼は私の事を「ススム」と言えず、そう呼んでいました)をTimpanistとして招くからその時は宜しく!」と言ってくれました。サイモンが私のTimpaniを高く評価してくれた事を嬉しく思いました。

実はこの演奏会の成功がその後の私の人生に大きく関わって来ます(次回に取り上げます)

 今回も選抜フェスティバル・オケに選ばれ首席Timpaniを務める事に成りました。指揮者は作曲家の「アーロン・コープランド」で作曲者の自作自演の演奏会でした。「市民の為のファンファーレ」やクラリネット協奏曲、メインは「ビリー・ザ・キッド」組曲等、ロンドンのロイヤル・アルバートホールでの演奏会でした。

 その後のサイモンの活躍は皆さん良くご存知だと思いますが、彼の最初の来日は1994年ロンドン・フィルとのツアーでした。ホテルオークラに会いに行くと喜んで自分の部屋に招き入れてくれました。20年ぶりの再会でしたが当然私の事をしっかり覚えてくれていました。丁度、私は指揮者としてのデビューコンサートの直前でその話をすると大変喜んでくれて、その演奏会のプログラムにメセージを書いてくれました。また、私を「Timpanistとして招く話」は覚えているかと訊くと、「勿論覚えているが、イギリスはユニオンが強くて外国人を招く事は厳しいので駄目だった」との事でした。

 その後もサイモンが来日するたびに必ず会いに行き、何時もG.P.を見学させてもらい、コンサートの招待券を用意してくれたりしました。特にウィーン・フィルとのBeethovenチクルスの時はサントリーホールの1階席のど真ん中のS席を用意してくれました。

 特に彼が育て上げたバーミンガム市交響楽団との来日の時に彼の演奏に付いて感じたのは「スコアに書いて有る事を忠実に丁寧に再現するのを大切にしている」「テンポやリズムが見事にコントロールされている」「音楽が活き活きしている」等、私が常々最も大事にしている事と重なってきます。音楽的に共通する部分が多く、音楽の感性が一緒だと感じました。TPPも「サイモンとバーミンガム」の関係の様に私の理想とする音楽が演奏出来る様に育ってくれればと思っています。

 サイモンは何時も本番終了後、一番最期に楽屋に招き入れゆっくり時間を取って話をしてくれます。周りのスタッフには「My Old Friend ”SUSUMI”」と紹介してくれます。(サイモンは「すすむ」と発音するのが難しい様で何時も「すすみ!」と呼びます。)

                     第7話  完   次回へ続く

 

2013年11月19日ベルリンフィル来日公演@サントリーホール楽屋
2013年11月19日ベルリンフィル来日公演@サントリーホール楽屋