私の人生と音楽

第6回 プロの世界に入って

芸大の2年生の頃からプロのオーケストラでの仕事をする様になりましたが、プロオケの現場は大変厳しく、事前にチャンと勉強をしてリハーサルに参加しないとオケに付いて行けません。従って、当然仕事の依頼が有った時は演奏する曲を教えてもらい、その曲の音源を探し、スコアを手に入れてしっかり勉強して行きます。練習の初日に与えられたパートをキチンとこなさないと「何やってんだ?」という目で見られてしまいます。出来て当たり前の世界なのです。本番まで上手く出来ないでいると次の仕事は頂けません。練習が1回しか無い様な仕事が有りますし、学校の音楽鑑賞会の仕事等は朝集合して簡単な打合せ程度の音合わせのみで直ぐに本番というのも有ります。プロオケの定期演奏会でさえ3日間(1日最長4時間半)の練習で本番を迎えます。経験の短い学生に取っては本当に先輩方に付いて行くのが大変なのです。

打楽器というパートは他の楽器に比べて出番が少なく休みを数えている時間の方が圧倒的に長いものです。私はそういう時には現場に持って行っていたスコアを何時も見ていました。そうすると他のパートがどんな事をやっているかが良く分かり、指揮者がスコアに書いて有る事をどの様に音楽にして行くかも観察する事が出来ました。

 

 仕事を沢山こなし、色々なオケの中で演奏して行くうちに色々な疑問を持つ様になりました。その第1は、そのオケの先輩方から「ここはこの様に演奏するものだ!」という指導を度々受けます。勿論大半は納得出来る指示なのですが、時々「あれ?」と思う様な事も有りました。その様な時には直ぐに先輩にその理由を尋ね、その理由が改めて納得出来る時にはその指示に従うのですが、どうしても納得が行かない時も有りました。その一例がドヴォルジャークの「新世界交響曲」の第4楽章に出て来る有名なシンバルのソロです。先輩が「チェコ・フィルがサスペンド(吊るし)シンバルでやっているからそうしなさい」といわれるのです。私はどう考えてもこのシンバル・ソロは合わせシンバルでやるべきだと思いました(私はこの曲の初演の時に合わせシンバルでキチンとコントロールして演奏出来る奏者がいなかった為に仕方なくサスペンドで演奏したのではと推測しました)。この様な時には、色々な指揮者で色々なオケの演奏を聴き比べて自分が納得出来る結論を見つけてそれに従う様にしました。

また、経験を積んで行くと、リハーサルでスコアを見ている時に、スコア通りに音楽が聴こえない事を感じる様になって来ました。勿論良い指揮者の時は指示でキチンと整理されるのですが、そうでない時に「プロのオケなのにどうしてこんないい加減な演奏をするのだろう」と度々感じる事が増えて来ました。アマチュアのオケでは良く有る事ですがレコード(当時は未だCDという物は存在していませんでした)等の聞き覚えで演奏すると楽譜に書いてある事をいい加減に演奏してしまいます。プロのオケでもその様な事が結構起きていたのです。

プロの演奏家も色々な人がいて、「凄い!」と思う人がいれば、「この人は本当にプロなのか?」と思う様な人もいる事が分かりました。これが当時のプロのオケの現場でした。私は打楽器に限らず「この人は凄い!」と思う人の演奏から学ぶ事に集中する様になりました。

この様な事を繰り返して音楽の現場に携わっているうちに、私なりに音楽というのは何か、演奏すると言う事は何なのか?を深く考える様になり、良い音楽をする為に何を大事にしなければ成らないかを考える様になりました。

 また、仕事の現場で疑問に思った事は検証する事が大事だと思いましたので、色々な演奏を参考にしましたが、やはり当時から世界最高のオケといわれていたウィーン・フィルとベルリン・フィルの演奏が最も参考になりました。ウィーン・フィルはウィーン国立歌劇場管弦楽団の団員の中でもウィーンの音楽学校でウィーン・フィルのメンバーから教わったメンバーでないと団員になれないと言われていましたが、その為に彼等の演奏は皆同じスタイルに統一されていました。「音楽の語法」が全員一致しているのです。また、ベルリン・フィルは音楽監督のカラヤンによって音楽の演奏が全て見事に管理されていました。この二つのオケの演奏を聴いてスコアを見ているとスコアに有る音符が全てキチンと演奏されていて、楽譜に有る音符を音にして演奏する為の基本やセオリーを色々気付かされました。この事は現在指揮者となった私の音楽に対する考え方の基本を教えてもらった様に思います。「楽譜に書いてある事を忠実にキチンと音として表現する。その為には守らなければ成らない約束事(セオリー)が有る。楽譜を忠実に音にした先に作曲家が意図した音楽の本質が見えて来る」という私の音楽に対する基本姿勢はこの時期に形成されて行ったと思います。

 幸いにも私の学生時代にはN響にホルスト・シュタインやロブロ・フォン・マタチッチ、オトマール・スイトナー、日本フィルには新進気鋭の小澤征爾等という何れも素晴らしい指揮者がタクトを取り素晴らしい音楽と接する機会を持てました。そのリハーサルでの指揮者のオケへの要求・指示を見聞きする事で、客席へ音楽を伝える為に何をすべきかという現場でのノウハウを色々勉強出来ました。例えば客席で聴いている人にスコアに書いてある様に聴こえる様にする為には場合によっては[p]と書いてあっても[f]で演奏しなければ成らない場合が有る(逆の場合も有ります)等々。仕事をしながら音楽の勉強が出来るという贅沢な時間を過ごす事が出来た事は現在の私にとって貴重な財産と成っていますし、現在指揮をする立場に成った私の音楽の原点にも成っています。

 

さて、いよいよ芸大を卒業する事に成りましたが、その時に以前に管打楽器の主任をしておられた山本正人先生に呼び出されました。「君は九州出身で初めての打楽器科の学生だ、九州交響楽団が今度プロ化する事に成ってティンパニ奏者を探している。君が九州に帰ってやってみないか?」というのです。実は私が3年生の時でした、当時未だアマオケだった九響の九州一周演奏旅行が有ったのですが、団員のティンパニストが就職試験と日程が半分ぶつかって出られないという事で私がエキストラでティンパニを叩きに行く事になりました。オケの旅行の途中で交代する訳で鹿児島に入りゲネプロから参加したのですが、既にオケは本番を数回やって来ているので殆ど数カ所確認するだけで終わってしまい、私にとってはぶっつけ本番でした。何とメイン曲はドヴォルジャークの「新世界交響曲」でしたが、私としてはキチンと演奏出来たと思っています。その後、日向・日田と回ったのですが全てが終わった時に常任指揮者の安永武一郎先生(ベルリン・フィルのコンマスだった安永徹さんのお父さん)から「九響は近々プロ化するので芸大を卒業したら是非来ないか!」と誘われた事を思い出しました。しかし、私もやっと芸大を卒業するところでまだまだ勉強の途中でも有り、もっと経験を積んでからにしたいと思い辞退しました。

この事はこの後不思議な因縁と成ります。九響の演奏旅行の時、就職試験でいなくて私が替わりを務め、私が九響への誘いを断った事で折角就職したのにその仕事を辞めて九響にプロとして入団したのが「永野哲」さんです。実は次回第9回定期にティンパニ協奏曲を取り上げますがそのソリストに招くのがその永野さんで、現在では私の大の親友でも有ります。

                       第6話  完   次回へ続く