私の人生と音楽

第1回 クラシック音楽との出会い

私は九州熊本県の山間の町「浜町」(現山都市)通潤橋という石作りのアーチ橋で橋の中央からの大放水で有名な橋のすぐ近くで生まれました。父は同じ浜町の生まれで職業安定所の職員、母は鹿児島の垂水と言う町から嫁いできました。両親の音楽との関わりと言えば、父は全く音楽教育を受けていませんでしたが、私が小学校の頃学校の教材としてハーモニカを買って家に持ち帰った所、父が「一寸貸してみ」と言って突然和音の伴奏付で小学唱歌等を吹き始めました。私がびっくりして「どぎゃんしたつね!」と聞くと、若い時に独学で覚えたと云うのです。楽譜も読めなかった父の音楽についての強烈な思い出として未だに忘れ得ません。母は東京の順心女学校(現順心女子大)を出て当時の逓信省に入り恵比寿の郵便局に勤めていた頃逓信省のコーラス部に入っていたそうです。歌が好きだった様で楽器は何もやった事が無かった様です。

 

母は音楽が好きで私が小学1年生の時に当時住んでいた御船町の高校に熊本交響楽団が来て演奏会をやるというので私と弟を連れて行ってくれました。この時が私がオーケストラを聴いた最初になります。その時の情景は何となく記憶が有るのですがどんな曲を演奏したか等は全く覚えていません。私が4年生に成る時に新しく来られた学校の音楽の先生がヴァイオリンを弾かれるというので、母が私に「ヴァイオリンをやりなさい」と言うので、ヴァイオリンの稽古を始める事になりました。私の記憶では結構頑張って練習していたと思うのですが、6年生に上がる時に先生が転勤でいなくなられ、当時の御船高校の音楽の先生に変わったのです。しかし、その新しい先生と相性が悪く直ぐにヴァイオリンをやめてしまいました。この事は、そのまま続けていれば今の私にとってどれほど役に立っていただろうと今でも後悔しているところです。

 

丁度その頃私の家の前の自転車屋さんの娘さんが短大を出て帰って来られてピアノ教室を始められました。弟が先に稽古に行き始めたのですが、「僕もやりたい」と母にせがみ私も通い始めました。家には当然ピアノ等有るはずも無く、教室の先生のピアノが空いている時や、小学校の休み時間とかに学校のピアノで練習しました。幸いヴァイオリンをやっていたので少しは楽譜が読めたので3ヶ月でバイエルを済ませてチェルニー30番に入ったところで中学受験が有るという事で又中断してしまいました。

 

この様に小学生の頃から音楽と関わってはいたのですが実は音楽の授業が大嫌いでした。というのは、先出のヴァイオリンの先生が合唱部の指導をされていて、弟子である私に合唱もやりなさいという事で合唱部に入ったのですが男子は私一人で後は全部女子という中で先生に一人で歌わされ、その時に上手く歌う事が出来ず女子部員に笑われてしまった事が有り、その後声を出せなくなってしまい結局は合唱部をやめるという事に成ってしまいました。それ以来学校の音楽の授業が大嫌いになってしまったのです。

 

中学受験が終り、熊本で初めての中高一貫教育で大学受験を目指すという新しく出来た真和中学に第1期生として入学しました。最初は御船町からでは通学出来ないという事で寮生活でした。半年後父の転勤で家族が熊本市内に越して来たので自宅から通学する様になりました。母が「もう一度ピアノを始めたら」という事で、中学の音楽の先生の所に通い始めたのですがこの時も3ヶ月でやめてしまいました。相変わらず音楽の授業は大嫌いで殆ど寝ていたと思います。中3になって、学校も3学年揃ったというので部活動が開始されました。私が選んだのは剣道部でした。同じ学園内の鎮西高校の剣道部に練習に通う様になり基本から教わり1学期が終わりました。2学期から防具を付けて練習するからというので親に剣道具一式を揃えてもらい楽しみにしていたのですが、夏休み中にとんでもない事になってしまいました。

 

お盆休みに家族で長崎・雲仙と旅行に行きました。温泉につかっていると父に「足ん、赤か斑点のごたるもんがいっぱい出来とるぞ」と言われて見てみると確かにそうでした。しかし痛くも痒くもないので「虫にでん咬まれたか、何かに被れたつかね」等と言ってそのまま放っておきました。処がだんだん足を重たく感じる様になり、9月1日の始業式の日に学校へ行った所、3階の教室まで上がる事が出来なかったのです。直ぐに近くの皮膚科に行って診察してもらった所「これは皮膚科の病気じゃなか!紹介状書くけん直ぐ大学病院に行きなっせ」と言われ、そのまま熊本大学病院に行き即入院という事になってしまったのです。病名は「紫斑病」、当時死亡率80%と言われる血液関係の難病だったのです。

 

入院一週間後夜中に洗面器2杯もの吐血をし危篤状態に! 私が目覚めた時、丁度担任の先生と同級生が見舞いに来てくれていて、私が「皆どぎゃんしたつね?」と聞いたところ、ベットの周りにいた全員が泣き出し、私は呆気にとられてしまいました。私はただ眠っていて目が覚めたと思ったのですが、実は2日も経っていたのです。主治医の先生からも「打つ手は全部うった、後は本人の生きる力だけが頼りです」と言われていたそうで、そんなに大変な事になっていると知らなかった私は、母に詳しい話を聞かされて初めて自分の状態が分かったという訳です。丸2ヶ月の入院治療の末に11月に入ってやっと退院出来ましたが、当分は自宅療養という事です。私が入院している間に同じ紫斑病で二人の方が亡くなったと聞き「ぞーっ」としたのを今でもはっきり覚えています。

 

自宅療養になった私に父が「寝てばっかじゃしょんなかけん、ステレオば買うてやろ」といってビクターのステレオを買ってくれました。高級な物ではなく一般普及品でラジオが2台付いていてLPレコードが掛けられる物でした。(当時まだFM放送は始まっていなくてNHKのラジオ第1・第2放送の同時放送で「立体音楽堂」という番組が毎日曜の朝11:00から有りました。それが聞ける機材だったという事です)そして、このステレオに販売店のご主人が2枚のLPをサービスで付けてくれたのです。そのLPとは1枚がブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団による「運命」と「未完成」、もう1枚がカレル・アンチェル指揮チェコ・フィルによる「新世界」でした。後で分かったのですが2枚とも当時名演とされ大変評判の高いレコードだったのです。

 

毎日の様に何度も何度も聴き、シンフォーニーの魅力・オーケストラの音の魅力に取り付かれて行きました。その内、日曜の立体音楽堂の時間が待ち遠しくなる様になりました。この事を機にわたしはクラシック音楽の世界にずぶずぶとはまって行ったのです。

 

第1話 完  次回に続く

 

第3回定期演奏会プログラムより転載 2010-9-11

 

第3回定期演奏会プログラムより転載 2010-9-11