私の人生と音楽

第9回 指揮活動のはじまり

 1978年3月「東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団」を退団し又フリーの打楽器奏者としての生活に戻りました。丁度その頃の事です。ある日思いがけない男から電話が来ました。

「熊高(熊本高校)のブラスの後輩の緒方です!」というのです。私が高校3年の時に1年生で、ユーフォニウムを吹いていた「緒方伸一郎」でした。突然の電話でビックリしていると、「先輩は高校のブラス時代に学生指揮(第2回「打楽器そして指揮との出会い」を参照)をしていましたよね!実は自分が所属しているアマチュアのオケが、指揮者が辞めてしまって困っています。先輩指揮をしてもらえないでしょうか?」というのです。「確かに高校時代学生指揮をしていたけれど、オーケストラは指揮をした事が無いので無理だよ!」と答えると「兎に角一回会わんですか?」というので、懐かしさも有り会う事にし、その週の金曜日の夕方「茗荷谷」で会う約束をしました。当日茗荷谷に行くと緒方君はチェロを持って待っていました。喫茶店に入り話をしていると彼は大学時代にチェロを始め、現在は東京サロンオーケストラ(略称TSO)というアマチュアオケでチェロを弾いているという事でした。その内「実は今日はそのオケの練習日なんです!でも指揮者がいなくて困っているんです。テンポとるだけで構わないので助けて下さい」というのです。「何を練習しているの?」と尋ねるとモーツァルトの交響曲40番と「シェエラザード」というのです。モーツァルトで有ればテンポをとる位の事は出来るかと思い、練習場に付いて行く事なりました。「テンポをとる位しか出来ませんよ!」と言って40番を指揮しました。これがオーケストラを指揮した初めての体験でした。この日は40番のみを練習し、終わってから団長はじめオケのメンバーと食事をしに行く事になり、その際に団長さんからも「是非お願いしたい!」と頼まれました。大学時代に副科指揮法を1年間勉強した事は有りましたが、兎に角「オケの指揮をした経験が無い事」「指揮コンクールの課題にもなる様な『シェラザード』はとても無理なので他の曲に替えて欲しい」と言うと「事情が有って『シェエラザード』はどうしても本番でやらなければならないのです」という事で「それではチャンとした指揮者が見つかるまで!」という条件でこのオケとの付き合いが始まりました。週に1回(土曜日と金曜日交互に)本業の打楽器の仕事が無い時は茗荷谷に通う生活が始まりました。


「シェエラザード」は打楽器奏者として色々なオケにエキストラで呼ばれて何度も演奏した事が有りましたので、曲はある程度理解していました。何度か練習しているうちに何とか棒を振れる様になって行きました。団長に「本番の指揮者は決まりましたか?」と聞くと「実は探していません、佐藤さんにお願いしたいと思います」というのです。オケを指揮する事が次第に面白くなって来ていた事も有り、「このオケの演奏会を指揮してもいいか!」と思う様になり、本番の指揮を引き受ける事にしました。

半年後、本番を迎え、こうして指揮者としての初めてのステージを踏む事が出来ました。


このTSOはとてもユニークな活動をしているオケでした。年に1回1泊2日の演奏旅行に行きます。その旅行先は施設への慰問や学校等での音楽鑑賞会とかです。定期演奏会は年に1回しか無いのですが、イベント出演等を含むと年間4〜5回の本番が有るのです。そしてその様は演奏会ではウィンナー・ワルツ・ポルカ、ルロイ・アンダーソンやケテルビー等のセミクラッシク、演歌、ミュージカル、映画音楽等々、兎に角レパートリーが広いのです。それだけの楽譜をレパートリーとして持っている事も凄いのですが、団長を始め団員の中にアレンジが出来る人がいて、ジブリ作品のアニメの新作が出ると直ぐにセレクションにした楽譜が出来上がるのです。

私はスタジオ・ミュージシャンとしても活動していましたので、スタジオの先輩方から演歌の演奏の仕方からポップス系の曲のテンポの取り方等を叩き込まれました。それなりの経験が有った事も有り、この様なクラシックでは無い音楽を指揮するのは大好きで、大変楽しく演奏出来ました。

このTSOとはその後、何と30年間も付合う事になりました。また、このTSOとの付き合いの中から、新たな出会いが生まれ、私の指揮活動が広がって行く事になるのです。次回はその新しい出会いに付いて書きたいと思います。



                          第9話  完   次回へ続く