私の人生と音楽

第12回「ユース・オーケストラとの関わり」

                     佐 藤  迪

 

 これまで色々と音楽人生について書いてきましたが、私の音楽人生の中でもう一つ大きな流れがあります。それは「ユース(青少年)オーケストラ」との関わりです。 

 

 高校3年の秋に打楽器で芸大への受験を決め音楽の道を歩み始めました。毎日打楽器の練習台と向き合ってひたすらタイコの基礎練習に取り組んでいた私に吹奏楽部の同級生が「熊本にジュニア・オケが有るらしいので一緒にそのオケに入らないか?」と誘ってくれました。クラシックの打楽器奏者になりたいと芸大受験を決めた私はオーケストラの経験も将来役に立つと思い、オーディションを受ける事にしました。無事に合格し「GKジュニア・オーケストラ」への入団が決まりました。GKとは当時のNHK熊本放送局(JOGK)が中心になって2年前に設立され、局のスタジオを練習会場としていましたのでこの名前になったそうです。このオケは後に「熊本ユース・シンフォニー・オーケストラ」(略称:KYO)と改称し、現在でも私との関わりは続いています。出来たばかりのオケでしたので翌年1月の第1回の演奏会に出演することができました。高3の私はこの演奏会だけで卒団する事になりましたが、その後受験の為東京に出てからも帰省する度にOBとして練習場に顔を出して、演奏会にも出演しました。

芸大に入学してから当時ジュニア・オケの理事長をされていた猪本乙矢先生から「東京に日比野愛次さんという青少年オケの指導者がいらっしゃるのでジュニアの指揮者にお招きしたい」との相談があり、たまたま私が浪人中に日比野先生と出会っていた事もありお招きする事が出来ました。また、その時にジュニアで足りないパートのエキストラを東京から呼びたいとの相談もあり、芸大の同級生や先輩に熊本までエキストラで来てもらう事にもなりました。(当時飛行機は高額で、寝台列車で往復してもらった事を思い出します)これをきっかけにその後、私はKYOの「東京事務所」的存在となり、エキストラの手配はもとより指揮者を紹介したりしました。皆さんご存知の指揮者「小泉和裕」氏(芸大の1年後輩)もその一人ですし、有名な「小林研一郎」氏(「炎のコバケン」として有名、第5回「芸大時代」参照)も紹介し指揮してもらう事になっていたのですが、丁度その年に「コバケン」はハンガリーの指揮コンクールで優勝した為に出演出来なくなり、芸大指揮科の学生だった河合良一君を代役に立てた事もありました。理事長の乙矢先生との関係はこの後色々な事に発展していきます。

 

一方、東京では当時NHKがバックアップして活動している東京ユース・シンフォニー・オーケストラ(略称:TYSO)というオケがあり、在京の音楽大学の学生や一般の大学の学生で構成され当時芸大の指揮科の先生をされていた渡辺暁雄先生や山田一雄先生が指揮をされていました。その関係で私は学生時代にエキストラとして行ったりしていました。芸大を卒業した1972年にTYSOがスイスのローザンヌで開催される「第4回国際ユース・オーケストラ・フェスティバル」(略称:IFYO)に参加する事になり私も打楽器奏者として参加する事になりました。この演奏旅行でサイモン・ラトルと出会う事になります。(第7回「サイモン・ラトルとの出会い」参照)このTYSOとの関わりが後の東京シティ・フィルの創団(第8回を参照)に繋がりその後の私の音楽人生に大きく関わってきます。

 2年後の1974年第6IFYOにもTYSOの一員として参加した私は帰国後、熊本に帰省し乙矢先生にこのフェスティバルの話をし「KYOもこのIFYOに参加しませんか?」と薦めてみました。すると先生は直ぐに乗り気になって準備を始められました。1976KYO初の海外演奏旅行とIFYOへの参加が実現する事になりました。私も同行し役員としてお手伝いする事にとなり3度目のIFYO参加となりました。

 

 乙矢先生は大変行動的な方で、その後日本全国からの若い音楽学生や愛好家から選抜した「日本ユース・オーケストラ」を結成して再度このIFYOに参加される事になります。この時も私は東京事務局として乙矢先生をお手伝いしました。この時のフルートの参加者の一人が当時京都芸大の学生だった「佐渡 裕」氏(現在指揮者として活躍)です。

 さらに、1989年に香港に本拠を置く財団が「アジア・ユース・オーケストラ」(略称:AYO)という活動を開始すると乙矢先生は日本支部長として参加されることになり、当然の様に私も東京事務局とオーディション委員という事でお手伝いする事になりました。毎年夏に3週間のキャンプをしてその後2週間の演奏旅行をして世界の各国を巡演するという活動でした。乙矢先生は1990年のキャンプを熊本に誘致され、その時に初代の音楽監督のユーディー・メニューイン氏と一緒に会食出来た事を思い出します。私は毎年日本からの参加者の募集・選抜に関わり、最後には日本公演全体のプロデュースも担当する事になりました。AYOとの関わりは乙矢先生が2003年に65歳の若さで急逝されるまで続きました。

 

以上の様にユース・オーケストラは私の音楽人生の中で一貫して大きく関わって来ました。特に乙矢先生との38年にも及ぶ関わりは色々な意味で私の人生の大きな部分を占めています。TPPの演奏を聴いて頂けなかった事が悔やまれます。

 

 KYOとの繋がりは今も続いています。最初の卒団生であった事も有り、OB会が結成された際に初代の会長に就任し、KYO創立30周年にOBオケの演奏会を実現させました。また、この演奏会で指揮者を務めさせて頂きました。その後5年毎の節目の年にOBオケの演奏会が開催され、私も指揮させて頂いています。

 

 

                                  佐 藤  迪

 

                           第12話 完  次回へ続く