私の人生と音楽

第2回 打楽器そして指揮との出会い

中学3年の夏に大病を患った私は結局2学期を丸々休んでしまいました。主治医からの許可も出て3学期から学校に復帰する事になりました。ところが中高一貫の受験体制である学校の3学期の授業の内容は高校1年の半分くらい過ぎたところで、当然1学期のブランクがある私は授業について行けません。そこで担任の先生及び両親と相談した結果、病気になる前に中学の課程を終了していた事もあり、県立の高校を受験する事になりました。高校受験は何とか県立熊本高校に合格する事が出来ました。後で分かった事ですが、実は中3の出席日数が本来ならば足りなくて卒業出来ないところを、県立高校の受験に合格したので中学の方で1日だけ足りている事にして卒業させて下さったという事でした。

 

無事に熊本高校に入学出来たのですが、病気の事もあり体育の授業は当分は見学という事で高校生活が始まりました。クラブ活動は直ぐにブラスバンド部に決めました。それには理由がありました。私の2歳下の弟が九州学院の吹奏楽部に入っていてクラリネットをやっていたのですが、実は私が入院生活をしている間に、なんと吹奏楽コンクールで九州代表になり北海道の室蘭での全国大会に参加したのです。ベッドの上で羨ましく思っていた私は、高校に入ったら自分も吹奏楽部に入ると決めていたのです。

 

吹奏楽部に入部して先輩から決められた楽器は弟と同じクラリネットでした。8月の吹奏楽コンクール県大会のステージがクラリネットの初舞台でした。ところがコンクールが終わると3年生の先輩達が受験のため引退し、9月の体育祭で入場行進等の演奏をしなければならないのですが、打楽器が2年生の大太鼓と小太鼓を演奏する二人だけになり、シンバルを演奏する者がいない状態になってしまいました。そこで先輩から「佐藤、お前はコンクールでシンコペーションばっかりのパート(4番クラリネット、メンデルスゾーンの「ルイ・ブラス」序曲でオリジナルではヴィオラのパート、パート譜の3分の2がシンコペーションというのを初心者の私が一人でやらされていた)をしっかり演奏していたからリズム感が良さそうだ。シンバルをやれ」と命令され、やる事になってしまいました。シンバルをやってみると以外と面白くて、打楽器も悪くないなと思い打楽器に転向する事にしたのです。これが私の打楽器との出会いとなりました。この時はまさか自分が打楽器で音楽の道に進む事になるとは思ってもいませんでした。先輩から打楽器教則本を渡され試行錯誤の練習が始まりました。

 

体育祭も無事終り、次は12月の熊高音楽部音楽会(毎年1224日の夜に開催される熊本高校の音楽部3団体グリー・クラブ、女声コーラス・ブラスバンドによる合同演奏会で、当時熊本の音楽関係者はこの演奏会で1年を締めくくる事が恒例になっていました)が目標になり新たな活動が始まりました。

 

そこで又事件です。新しく学生指揮に就任した2年生の先輩が突然退部してしまったのです。引退した3年生の前学生指揮の先輩に話が有ると呼び出され「お前は何時も他の楽器をいたずらで吹いているが、音感が良さそうだから学生指揮をやってくれないか?」というのです。確かに他の楽器の事も知りたくて木管も金管も先輩を捉まえては吹き方や指使いを教わっていたずらで吹いてみたりしていました。指揮も先輩が振るのを見ていて格好良いなと思っていたので「僕は未だ1年生ですけど大丈夫ですか?」と返事をすると、「他に候補がいないからやる気が有るならやってくれ」と言われ「はい」と返事してしまいました。結局は3年生の先輩も音楽会までは復帰する事になり二人体制で行く事になりました。

 

早速練習で合奏の指揮をする事になった訳ですが、その初日はひどいものでした。指揮等全く経験が無かった訳ですから、曲の始め方も良く分からず、曲が始まってもテンポをカウントするのが精一杯で、バンドの方で勝手にドンドン演奏が進んで行くという感じで何もする事が出来ませんでした。二日目、曲を始めるやり方は何とか出来る様に成り、曲の進行もバンドと一緒に進行している感じで振れる様に成りました。3日目、やっと私の指揮でバンドが動く感じが掴めて指揮をしているというイメージが持てる様に成りました。とは言っても、曲のイメージは感じていても、それを指揮で表現し、バンドに伝えるのにはほど遠い状態で、何とか学生指揮のスタートを切りました。それでも今思い返すと指揮をする事の面白さにこの時目覚めた様に思います。

 

音楽部の顧問の滝本泰三先生は武蔵野音楽大学の作曲科を出られて当時の宝塚歌劇団の指揮者もされていた方です。作曲の方も沢山の曲を作曲され、特に合唱曲では素晴らしい曲を作曲されています。何故か熊本高校の音楽教師になられたという事ですが、東京で活動されていたら作曲・指揮の両方で凄い音楽家になられたのではないかと思うのです。素晴らしい才能をお持ちの先生でした。バンドの指揮をされる時は音楽の基本をしっかり指導して頂き、その事が私の音楽のベースになっています。

 

吹奏楽にはまり込んだ私は学業の方は当然の如くお留守になり,成績はドンドン下がる一方で、自宅でも受験勉強している振りして楽譜を見ているという有様でした。

 

2年生になりコンクールに参加したのですが、この時はティンパニを担当しました。審査員として来ておられた熊本大学音楽科教授の合谷先生が「君のティンパニは本格的だね」と誉めて頂き嬉しかった事を思い出します。しかしこのコンクールでの課題曲(当時は行進曲でした)の演奏で審査員の一人の先生が出された講評に滝本先生が大変立腹され今後はコンクールには出ないと宣言されました。私は滝本先生の音楽的判断は間違っていないと思い納得しました。この事件でも音楽とは何が大切かという事を教えて頂いた様に思っています。また、12月の音楽会では学生指揮として初舞台を踏む事になりました。

 

3年生になり、夏のコンクールは前年の事が有り結局出ませんでした。夏休みの終りに私の人生を変える事になる大きな出来事が起こります。

これについては次回をお楽しみに!!

 

                         第2話 完  次回に続く

 

 

第4回定期演奏会プログラムより転載 2011-2-5