私の人生と音楽

第5回 芸大時代とプロの世界へ

私と一緒に芸大打楽器科に合格したのは定成庸司(現沖縄県立芸大教授)吉原すみれ(ジュネーブ国際音楽コンクールで優勝しソリストとして活躍)荒瀬順子(ミトラ=中米地方のマリンバに似た民族楽器の奏者)の3名でした。私がこの道に入るきっかけを作って下さった今村三明さんは私と入れ替わりに卒業されてN響に入団されました。小宅先生が亡くなられてN響の有賀誠門先生が新たに打楽器科の主任に就任されましたが、1年生の私は以前から講師をされていた高橋美智子先生に教わる事になりました。

 芸大の実技に関する主な授業は専攻実技のレッスン・1年生は管打合奏・2年生からは学年毎のオーケストラ授業が週2回・吹奏楽の授業が週1回です。当時の指揮科には山田一夫先生・渡邉曉雄先生という最高の指揮者が二人もいらっしゃって授業も非常に内容の濃いものでした。

 1年生は授業の前に先輩が来たらすぐ演奏出来る様に必要な打楽器を全てセッティングして待つ様に「芸大打楽器科の伝統」という事で指導されました。(この伝統は楽器の扱いを覚えたり、セッティングの大切さを勉強するには大変大事な事では有りましたが、私が3年になった時に「自分が演奏する楽器は自分で準備するのが当たり前だ」という考えから同期の3人と相談して無くしました)

 またオケや吹奏楽の授業は曲によっては人が足りない曲も有りますのでその時はエキストラとしてお手伝いしたり、先輩が仕事で大学に来られない時は代奏を頼まれたりしました。この事は未だ経験の浅い私に取っては色々な曲を経験出来るという、願っても無いチャンスでもありました。特に4年オケは女性の先輩が二人しかいなかった事もあり、殆ど私が代奏をしていました。また、授業とは別に学生の有志が運営している「アンサンブル・ロリエ」という有志オケの活動も有り、このオケは団員の推薦が無いと入団出来ないのですが今村さんの推薦で入団出来ました。オケの授業では中々取り上げられない曲を演奏する事が多く貴重な経験をする事が出来ました。

 オケの授業は4回の授業で序曲1曲・交響曲1曲をこなし次の曲に移るというペースで、次々と曲をこなして行きます。これは早く曲を理解し確実に音楽にして行くというプロとして必要な力を付ける訓練として大変有効だったと思います。また、9月の末に4日間「芸術祭」(いわゆる学園祭です)が開催されます。各科毎に模擬店を出したり、奏楽堂やオケホールを使って演奏会も沢山開催されます。打楽器アンサンブルや現代音楽の室内楽、作曲科の学生の作品発表、オケも学年オケ・有志オケ・指揮科学生オケ・協奏曲オケ等々学生を寄せ集めた臨時編成のオケが続々と発表します。私が1年生の時は4日間で18回も本番が有り、2年生以上になると20回を超える本番が当たり前という状況で、この芸術祭でもの凄い曲数を経験できました。以上の様な事から、当時「芸大卒業生は即戦力になる」と言われました。

 

 私が芸大入学後、受験時代から問題が有った腰の状態が悪化し夏休みに熊本へ帰省した際にキチンと治した方が良いという事になり、熊本大学病院で見てもらった処「椎間板ヘルニア」という事が判明、4週間入院治療という事になりました。幸いにも手術は回避出来ましたが退院後完治するまでコルセットを着用しなければならなくなりました。東京へ戻りある日、レッスンに備えて芸大の練習室でマリンバの練習をしていた処、腰がぐらぐらとしたので「ヤバイ!」と思い椅子を並べて横になっていると高橋先生が室に入って来られて「さっきの地震凄かったわね!佐藤君どうしたの?」と言われて、私の勘違いと判明、大笑いになってしまいこの日はレッスンを見てもらえませんでした。(先生は笑い出すと中々止まらない方でしたので)

 大学2年の夏休み、作曲科の同級生の提案で2年オケで合宿と演奏会をする事になりました。私が実行委員長になって全体を仕切る事になりました。合宿先は山形県村山市、最初の3日間は自衛隊の村山駐屯地内で体験入隊を兼ねて、四日目は地元のお医者さんの招待で蔵王温泉に一泊して大宴会と温泉でくつろぎ、その後2日間村山市内の小学校に合宿、最期の日は午前:小学生対象の音楽教室・午後:中学生対象の音楽教室・夜:高校生と一般市民の方の為の演奏会と1日で本番3回という強行スケジュールで、東京からの往復の旅費を含めて個人負担が当時の3000円という格安プランでした。指揮者は1学年先輩だった小林研一郎(今や有名な「コバケン」)にギャラ無しで参加してもらいました。この時の経験が将来の私の生き方につながって来ます。

 

さて、芸大2年の時、先輩から「新しいプロのオケを創って演奏会をするのだけど打楽器の団員が誰もいないので手伝ってくれないか?」と誘われ、このオケのデビュー演奏会でTimp.を叩く事になりました。これが私がギャラをもらう最初の仕事になりました。プロとしての第1歩を歩み始める事になった訳です。このオケが「新星日本交響楽団」(2001年に東京フィルと合併)でした。メイン曲はBeethovenの第5番「運命」でした。その「運命」の本番で事件が起きました。曲の最期の最期オケ全体で何度も強打する所が有りますが、そこで指揮者が音が無い筈の所で思いっきり振り間違ったのです。音の立ち上がりを揃える事が大事な部分でしたので楽譜を見ないで指揮者だけを見て叩いていた私は「アッ」と思ったのですが振り下ろした腕を止める事が出来ず思いっきり叩いてしまったのです。他にも何人かは飛び出したのですが私が大ソロをやってしまった様になってしまい、その後新星日響の関係者に会う度にこの事件の事を言われてしまう事になりました。ちなみに初めてもらったギャラは3000円だったと思います。そんな事があったにも関わらず、引き続きこのオケの仕事を頼まれる様になりました。また、これをきっかけに色々な仕事オケ(バレエ・オペラ等の為の臨時編成のオケ)の仕事が入って来る様になりました。しかしこの仕事オケはひどいもので本来打楽器が5人必要な曲を2人で何とかしなければならないし、ペダルTimp.が4台必要なのに手締めのTimp.2台しかなくて、それでも何とかそれらしくしなければならないとか大変な苦労をしました。が、2人で何処までオリジナルに近い音を出すかに挑戦する楽しみも有りました。

 3年になって、メジャーオケである日本フィル(分裂する前の話です)からの仕事が来ました。当時N響と双ぶ素晴らしいオケでしたので大変緊張して最初の練習に向いました。曲はガーシュウィンの「パリのアメリカ人」で大太鼓を担当する事になりました。この時に将来的に大変影響を受けた3名の素晴らしい打楽器奏者の方々とお会いする事になりました。TImp.の山口浩一さん(後に新日本フィル)、浩一さんの弟の山口恭範さん(日本人で最初に打楽器リサイタルをされ、特に現代音楽の分野で活躍されました)、そして小太鼓の佐藤英彦さん(何時もTPPのアンコールに出演頂いています)です。練習が始まる前に沢山有る大太鼓のマレット(バチ)の中から使用する物を選び、一番気に入った物に決めました。2日の練習の後、本番も自分としてはチャンと出来たと思っていると本番終了後、英彦さんが私の所にやって来て「佐藤君、凄く良かったよ!僕が作ったバチで初めて一番いい音を出してくれて有り難う」(英彦さんはマレット製作者としても有名でした)と言って下さいました。これを機会に3名の方から色々な仕事を頂ける様になり又仕事の場が広がり、N響・読響・都響等次々とエキストラの仕事が来る様になりました。

3年から有賀先生に教わる事になったのですが、私自身が仕事が忙しくなってしまい、当時まだN響でTimp.を叩いておられた先生のスケジュールと合わなくて、中々レッスンを受ける時間が取れない様な状況になっていました。

                       第5話  完   次回へ続く